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2008年12月18日 (木)

滋賀県・大津市の歴史

 私たちの暮らす学区が、なぜ県名と同じ「滋賀」学区なのか? 「志賀」小学校なのに、なぜ「滋賀」学区なのか?なぜ長等学区に市役所があるのか?、ずっと疑問に思っていました。ということで、インターネットで基礎知識を得た上で、大津市立図書館に、滋賀県・大津市・志賀小学校・長等小学校の歴史について調べに行きました。

 まず、滋賀県の歴史です。

 古代より、石が多い所を「シガ」と呼び、現在の志賀町から石山寺あたりの湖西地域は石が多かったため「シガ」と呼ばれていたようです。そして漢字が使われるようになると、「滋賀」「志賀」「志我」等の文字が流用されるようになりました。ですから「滋賀」と「志賀」の違いに意味はなく、ただ流用された漢字が違っただけのようです。
 湖西地域の「シガ」の中心は、現在の滋賀里・南滋賀付近にあったようです。大津京(錦織)を守るために、三井寺・南滋賀寺・穴太寺が建立されたとも言われています。

 明治になり廃藩置県により、大津県・膳所県・水口県・西大寺県と彦根県・山上県・宮川県・朝日山県ができました。明治4年に大津県・膳所県・水口県・西大寺県が統合され大津県になり、彦根県・山上県・宮川県・朝日山県が統合され長浜県ができました。この頃、現在の志賀町から石山寺あたりが滋賀郡でした。明治5年2月に大津県は滋賀県に改称され、長浜県は犬上県に改称されました。明治5年9月に滋賀県と犬上県を合わせて単一県となり、統一された県名は、滋賀郡の滋賀から採用されました。

 明治2年から大津県では円満院(長等学区)に県庁を置いており、滋賀県になっても円満院(長等学区)の県庁をそのまま継続使用しました。明治21年に現在地に滋賀県庁が新築されました。

 次に、大津市の歴史です。

古代より、港のことを「ツ」と呼び、漢字が使われるようになると「津」の文字が流用されるようになりました。「オオツ(大津)」は、大きな港という意味です。

 明治22年に町村制が施行され、南滋賀・錦織・山上・漣(さざなみ)・山中・滋賀里の6ヶ村が合併され、新村名は滋賀村となりました。この頃、滋賀村以外に、石山村・膳所村・下坂本村・坂本村等ができ、県都として大津町ができました。

 明治31年に大津市制が施行され、大津町の町役場を市庁舎としてそのまま継続使用しました。大正5年に、旧三井銀行が土地を大津市に寄付し、現在地(長等学区)に市庁舎が新築されました。大津市は、昭和7年に滋賀村と合併、昭和8年に膳所町・石山町と合併、昭和26年に雄琴村・坂本村・下坂本村・大石村・下田上村と合併、昭和42年に瀬田町・堅田町と合併、平成18年に志賀町と合併し、平成21年4月に中核市になります。

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