王の湖・武士の湖
11月28日、コラボしが21において、滋賀県埋蔵文化財センター主催の講演会、「王の湖・武士の湖(おうのうみ・もののふのうみ)」が開催されました。
古墳時代と戦国時代の権力者にスポットを当てて、権力者が琵琶湖を通じて戦乱の世をどのように支配しようとしたかを考察し、古墳時代と戦国時代というまったくちがう時代を、琵琶湖を共通項としてコラボしようと(むすびつけようと)試みた、斬新な企画でした。
「王の湖(古墳時代)」の講演をされた滋賀県教育委員会文化財保護課の細川氏、「武士の湖(戦国時代))」の講演をされた滋賀県教育委員会文化財保護課の木戸氏ともに、とても分かりやすく自説を説明されました。講演内容は、主に次の事項についてでした。
1.「王の湖」
(1)はじめに
西暦250~672年を古墳時代とする。琵琶湖は、東西日本列島の結節点、日本海と太平洋を最短で結ぶ地点、安定した生産能力をもつ平野が広がる、豊かな舟運。
(2)卑弥呼の時代
壷笠山古墳(穴太)、安土瓢箪山古墳(安土町)、膳所茶臼山古墳(膳所)、荒神山古墳(彦根市)
(3)継体大王
古代史最大の謎とも言われる継体大王は、近江・高島出身との説もある。
(4)天智天皇
667年に大津遷都、近江大津宮、錦織遺跡。
2.、「武士の湖」
(1)織田信長の築城
坂本城(比叡山のふもと、京都の抑え)、長浜城(北国・美濃への抑え、交通の要衝地)、安土城(天下布武の礎)、大溝城(西近江の抑え)。琵琶湖の東西南北に4つの城を築き、水上ルートを整備し、自分の力を誇示した。
※琵琶湖の湖上ルートを重視し、琵琶湖沿いにしか城を築かなかった。
(2)豊臣秀吉の築城
信長が築いた4つの城のうち、大溝城はそのまま、安土城にかわって八幡山城、坂本城にかわって大津城(比叡山ににらみをきかす必要がなくなったので、京都に近い場所)、長浜城にかわって佐和山城(北国と美濃の結節点、佐和山城を制する者は近江を制すると言われた)を築いた。また内陸部街道の抑えとして水口岡山城(伊賀との国境の監視)を築いた。
※琵琶湖だけでなく陸地にも目を向けた。
(3)徳川政権の築城
大津城が関が原の合戦で廃城となったため膳所城、水口岡山城にかわって水口城(戦の心配がなくなったので低地に)、佐和山城にかわって彦根城(佐和山城は高くて使いにくかった)を築いた。
※戦がなくなったため城を山につくる必要がなくなり、低地に築くようになった。水口城・彦根城・膳所城・二条城(京都)等。
3.パネルディスカッション
滋賀県立琵琶湖博物館学芸員の用田氏、滋賀県教育委員会文化財保護課の細川氏、滋賀県教育委員会文化財保護課の木戸氏の3名で楽しいトークをされました。
↑会場で購入したテキスト。
「テキストの巻末」
古墳時代の王たちと戦国時代の武士たちの琵琶湖に寄せるまなざしは、社会背景の違いから、似ているところもあれば異なるところもある。最も似ているのは、懸命に琵琶湖の特性を見出そうとしたところだろうか。
新しい琵琶湖の在り方は、私たちが琵琶湖を真摯に見据えることから生まれてくるのだろうか。
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